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だまってすわれば 香坂次郎

この本は水野南北一代記です。

五歳の頃両親をなくした鍵屋熊太は、叔父に引き取られ鍵や錠前作りを叩き込まれた。しかし十歳にして覚えた酒の味が熊太の人生を狂わした。

極道とは名ばかりの十五、六歳。最初は虚渇(頻繁に発生する火事に手を焼いた幕府は「加えタバコ禁止令」を出した。“御禁制”“火あぶり”の恐ろしい恫喝にちぢみあがった旅人から有り金を巻き上げた)専門のガキ大将のようだった熊太に、大阪の住民が排泄する“糞尿”の仲買人が、安く買い叩こうとする百姓とのトラブル処理を依頼した。小判にして五十両の“大仕事”を熊太は見事にやってのけた。しかし、この一件で大金を手にした熊太の羽振りを十手持ちのデバ金に目をつけられ、結局熊太は入牢する。

一年の務めを終えて娑婆に舞い戻った熊太の“昔の女”は“大仕事”の残金を持ち逃げするが、大阪の“旦那衆”は利用価値ありと見て手厚く迎え入れた。浮世小路の住民になった熊太は“安政の世”(江戸の爛熟期で享保の改革の苛酷な締め付けの反動で、江戸時代を通じて最も士道が廃れ、風俗が乱れ、一にも二に黄金万能の世だった。)を謳歌することになる。

大阪、京都、江戸の借用証文の時効の違いに目をつけた熊太は「死(へたり)証文」を大阪の“旦那衆”が江戸の商人に借銀のカタに譲り渡したかたちにして、江戸で寺社、町、勘定奉行所の公事訴訟(民事訴訟)に関与する奉行たちの裏判をとって、その古証文を片手に借銀商人たちの眼前でちらつかせて凄んだ。熊太の目論見は的にあたり「死(へたり)証文」は見事に“走った”

ちなみに落語「五貫裁き」で大岡越前は八五郎に「5貫を毎日一文ずつ返せ」と命じ、八五郎が日に一文ずつ徳力屋に渡し、徳力屋が奉行所に払いに行くことになった。しかし・・・徳力屋このままだと13年は眠れぬ日が続き、受け取りの用の半紙が5000枚、なにより五人組への謝礼が莫大な量になってしまうことが判明する。焦った徳力屋に示談を提案された八五郎は、打ち合わせどおりに大家に話を持って行き、結局20両で示談にしてもらった。

“安政の世”・・・熊太は溜息し、万年床でごろごろした。

しかし熊太は熊太であって水野南北だった。《人生牛の糞じゃ》にんげんの世は、牛の糞のように段々で、わずか何十文の手間賃稼ぎに齷齪と一日中汗を流している者もいれば、熊太のように月に一、二度、古証文を片手に凄んで見せるだけで、朝から酔いどれて妓びたりで遊び暮らしているものもいる。

そのころ熊太の人相には「火輪眼」が現れていた。乞食坊主の水野海常との出会いが人生を変えた。すんでのところで命拾いした熊太は海常に弟子入りする。

長いが引用したい。

「ようく聞け」

海常は、肩を喘がせていう。

「相を見きわめるというは、いかに千巻万巻の書を読もうと、それにて事たりるほど根のあさいものではないわ」相とは、物のすがたである。書を読むとも、それを運用し正確な判断をくだす洞察力がともなわねば畳の上の水練と同じこと。そのためには、まず、お前のその眼で万人の相(人相)を観る実学が要るのだ。

「お前は若い」

すこやかな五体にも恵まれている。極道くずれゆえに人の世の機微にも通じておる。無学ゆえに並はずれた記憶力がある。このうえ何を望むのか。

 

「よいかな観相というのは、ものの貌を観るということゃ」

人間の相というものは、顔だけではなく、頭のてっぺんから足の先、座った姿、歩く姿、その人のさまざまな動作、また、臍から五十万本におよぶ体毛の相まで、にんげん全体を観るもの。つまり、広い意味での人間学でもある……と海常はいう。

そのうえ厄介なことに「相は心に従って生ず」と古人が云ったように、心の持ち方や感情によって、微妙に変わる。

「お前は知らぬであろうが、極道のころ難波村の土橋ではじめて逢うたときのお前……浪花橋での托鉢すがたのお前……そして今ここに坐っているお前……わしの眼には三つのお前の相が観える」

「へえぇ」

熊太は、眼をかがやかせて海常の声をきいた。

水野海常は宗の陳図南の「神相全篇」を元に三日三晩説き続けた。以来南北の一所不在の相学修行の人生が始まった。「千人観相、万人観相」金華山で喜仙人から婆羅門の秘術を学び、髪結いの弟子になり人相を学び、風呂屋の三助になり身体全てを“さわり”観相するかと思うと、火葬場の焼き場人足になり“死顔”“活顔”を観る。

天明七年、ついに南北は相師としての第一歩を踏みだした。「黙って座ればぴたりと当たる」「当代随一の観相家」「天下第一の水野南北」南北の噂はたちまち知れ渡り、観相に加え門人達への相法の講義、さらに天明八年春、三十二歳にして「南北相法」全五冊を監修した。

「だまってすわれば」この本はただの偉人伝ではない。無知無学から出発して歴史にその名を刻むまでになった南北先生だが、自身の十八人の女房の観相はできず「女ァ魔物ゃ」と頭を抱え込み、常に女難が付きまとい《妻縁薄きは、諸道上達の一相なり》とうそぶいてみたりもする。さらに一番最初の弟子はおしるこ屋にしてしまう。自身は「千人観相、万人観相」とひたすらに相学の道を突き進んでも、それ以外の生き方があり「人の生きざまは千差万別なんだ」と得心している。愛弟子に店を出してやり、道をつけてやったばかりか「南北相法早引」には南北門歴々の高弟を尻目に、真っ先に名を連ね序文を書かせてやる。「千人観相、万人観相」の実学は人を生かすためのものであった。

南北の命運学の面目は「適中を誇るべきではなく、人を救う」ことに重点を置いたことであろう。南北が偉大なのはここである。また南北は七十八歳で逝ったが「食物によってその人相、運命を変えうるものとしたところ」にあると作者は言う。

「いのちとはなんじゃ」「生きるとは、どういうこっちゃ」五十六歳にして伊勢皇大神宮にて天地同体を念じて食を断ち、水垢離をとって三十七、二十一日の荒行に入って、ついに「人の道は食にあり」従来の“宿命説”を打ち破った南北は、世界でも類のない卓絶した「慎食」の思想を確立した。

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